2/25(木) 20:10配信
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現役生活16年で、5つの背番号を背負った平野。とくに思い入れが深いのは、中日時代の「57」と西武時代の「24」
プロ野球のレジェンドOBたちが、軒並みYouTubeを始めている。当時の裏話をバンバン知ることができて、ファンにはたまらない時代だ。2020年12月にYouTubeデビューした平野謙(65・中日、西武、ロッテ)も、40~50代のプロ野球ファンにとっては、間違いなくレジェンドの一人だ。
平野は1981年に一軍デビューし、1996年に現役引退するまで、盗塁王1回(1986年)、ベストナイン1回(1988年)、ゴールデングラブ賞9回(1982、1985、1986、1988~1993)と、輝かしい記録を残した。また、バントの名手としても知られ、1988年に巨人の川相昌弘に抜かれるまで「通算451犠打」はプロ野球記録であった。
そんなレジェンドの平野だが、『平野謙の野球道チャンネル』の登録者数は410人(2月24日現在)と、「何かの間違いでは?」と思えるほど寂しい数字……。平野がYouTubeを始めたことを、ファンが知らないだけに違いない! ということで、小さいころから大のドラゴンズファンである記者が、本人を直撃した!
「YouTubeを始めたのは、動画撮影を担当してくれている方から誘われたのが、きっかけです。ただ、僕はアナログな人間なので、その手のことにまったく疎くて、ほぼほぼ丸投げでお願いしています。
ほかのプロ野球OBたちのYouTube? あんまり観たことないんだよね(笑)。チャンネル登録者数っていうのは、なんなの?」
かなりの “IT音痴” ぶりをみせる平野。さらに、驚きの発言が続く。
「パソコンでわかるのは、電源の入れ方くらい。現役引退後、ヒルマン監督のもとで日本ハムのコーチやってたときに、1人1台パソコンを与えられたんだけど、僕のパソコンは最後までずっと眠ってました。あれをしっかり使えていれば、あと1~2年コーチをやれたかもしれない(笑)」
現役時代、気さくな人柄で後輩に慕われただけあって、饒舌に語る平野。中日時代の彼のテーマソングは「狼少年ケン」だったが、こんな裏話を聞かせてくれた。
「よく応援団に言われたのは、『テーマソングをかけるから、ちょっと打つのを待ってくれ』と。とにかく僕は初球から、どんどん打つほうやったから、音楽をかけようとすると打っちゃう。そうすると音楽がなかなか長く続かないから、『ちょっと長めに、ボールを見る打席も作ってくれませんか?』って言われたことがあるよ」
現役時代の趣味は、麻雀だったという。
「よく一緒に卓を囲んだのは、ドラゴンズでは(小松)辰雄、(都)裕次郎、大河原栄さん。西武時代は兄やん(松沼博久)、高山(郁夫)とか、なんかピッチャーが多かったな。野手だと、大洋から来た村岡(耕一)とかね。酒があまり強くなかったから、お酒を飲みに行くよりも、麻雀してるほうがよかったんだよね。
酒っていえば、中日時代に僕がよくツルんで遊んでた杉本(正)。スギはもう俺よりひどくて、名古屋で飲みに行っても、スギのキープしてるボトルの中はカルピスだったから。いかにもなっていうボトルなんだけど、中身はカルピスっていう(笑)。周りは飲めない人間ばっかりだったね。中尾(孝義)なんか、まったく飲めないし」
1980年代前半の中日は「野武士軍団」と呼ばれ、酒豪揃いのイメージだったが、そうでもなかったようだ。
「中尾は僕と歳が一緒で、宮崎の串間のキャンプでも一緒の部屋だったんですよ。2人で『今日は飲むぞ!』なんて言って、ビールの小瓶を半分ずつ分けるんだけど、それが飲み干せなくて、2人とも寝ちゃうっていう。27歳ぐらいのときかな」
平野にとっては中日最後のシーズンとなった、1987年。1対4の交換トレードという、プロ野球史上に残る「世紀のトレード」で移籍してきた落合博満との思い出も聞いた。
「落合さんはロッカーが隣同士だったから、いろんな話をさせてもらいました。落合さんが移籍してくる前は、ほんの数日間、野手では僕がいちばん年俸が上だったんだよね。『平野が一番』ってなった瞬間に、億の方が来られたっていう(苦笑)。
>>2続く
(出典 amd-pctr.c.yimg.jp)
https://news.yahoo.co.jp/articles/24967235b94b4c6551a47f99c481c4ea9c121775
>>1
平野って両親が若くして癌で亡くなっている為、
自分も癌になるだろうと思って太く短く生きようとプロ野球選手になったとか言ってたよね。
その割には長く生きて元気だな、良かったけど。
あと、落合さんはいつも俺のタバコを吸ってたからね。信子夫人に言われてたのか、家ではタバコ吸っちゃダメだったらしいから」
翌1988年、平野は西武にトレードされる。西武時代のチームメイト・清原和博とはどんなふうに接していたのだろうか?
「俺が33歳になるときだから、キヨは当時21歳かな。まだ若かったし、彼はどっちかというと、のほほんとしてたからね。
昔の西武球場のロッカールームって、入り組んだ作りで、僕とキヨのロッカーの間には太い柱があって、僕のロッカーからはキヨが見えなかったの。もちろんキヨに悪気はないんだろうけど、なかなか挨拶がないから、『あれ? 今日キヨいるのか?』って俺がでっかい声で言って、『おはようございます』ってキヨが挨拶するっていう。こっちは移籍1年めだったけど、あんまり関係なくやってたよね」
1番を打っていたこともあるが、おもに2番バッターとして、中日時代は田尾(安志)、西武時代は辻(発彦)と1・2番を組むことが多かった平野。バントの名手として鳴らした裏には、こんな事情もあった。
「田尾さんにしても辻にしても、そんなに走る1番じゃなかったから、よけいにバントが増えたんだよね。でも、田尾さんは『お前のバントは、ちゃんと転がしてくれるから』ってことで、すごいスタートがよくって。だから俺がバントして『あー、強すぎた!』って思っても、田尾さんはセーフになってくれてすごい助かった。
辻はね、右打ちとかうまいけど、あんまりバントは得意じゃなかった。彼がバントを失敗してエンドランで出塁したりすると、結局、俺にバントのサインが出るんだよね。だから、俺のバッティングの状態がいいときは、9番の田辺(徳雄)が塁に出たら、辻には『頼むからバントを決めてくれ』と思ってたもんね」
まだYouTubeで話していない、現役時代の秘話を披露してくれた平野。これだけエピソードを持っていれば、今後の登録者数増加も期待できるが……。
「観てくれてる方のコメントとか嬉しいし、全部自分の言葉で返信させてもらってます。まあ、僕のコメントをスタッフに打ち込んでもらってるんだけど(笑)。田尾さんとか、ほかの選手とのコラボ? やってくれるかな~?」
こいつより男前で顔がいい田尾が西武に移籍した時は驚いた
何年か連続で最多安打とか打ってたし
尾頭橋のとこにトレード止めろって大きい垂れ幕もあった
>>3
イチロー記念館にも当時の作文に田尾もどせ!って書いてるくらいにはショッキングな出来事。
元西武じゃなくて元中日なのか
当時のファンとしてはそっちのほうがいいけど
人気ユーチューバーみたいな注目は集めないかもしれないけど
自分の現役時代を知ってるファンと交流するってだけでも
本人の趣味として楽しめそう
ひょんなことからばずったりするかもしれないし
牛島も地獄のパリーグに落合を取るから飛ばされた
あの時のパリーグなんかテレビ中継はないしホントにたまにNHKで放送するぐらい
球場も西武以外はガラガラだったな近鉄の試合を見に行った時に近くのジャスコのが人がいた
星野に嫌われてすぐ放出された。彦野が台頭してきたのもあるが。
>>8
出されたというか、森監督が熱望したんじゃね?
巨人から取った鹿取もそんな感じだったし。
>>23
出された。星野がなんか好きじゃなかったみたい。ガッツを表に出さないクールな感じだったからかな。
勝浦の温泉病院でサインもらったときに「星野監督きたらどうせトレードで出されるんやろな。はよ決めてほしいわ」って嘆いてたし。
落合にも学生服の裏地にサインもらおうとしたら「それはサインするもんじゃない」って断られた
平野、秋山、苫篠(吉竹)の鉄壁外野陣
外野に打球飛ばしたら終わりだった
>>12
西武に移籍して来た投手がオープン戦で投げて、右中間に打たれた打球が完全にヒットだと思ったら、
秋山が余裕で追いついて、平野もバックアップにいてビックリしたらしい。
ベンチでお前ら凄いな!と感激して話ても、普通のプレーだと言って不思議な顔されたらしい
>>40
イチローも当時の西武の外野陣はメジャーの中でも見劣りしない布陣と言ってる。
思い出補正もあるかも知れないがイチローの思い出補正ならそこらのおっさんよりよほど信用に値する。
>>42
イチロー、本西、田口の外野トリオなら
いい勝負だろう
1001に反抗して干された話とかジョイナスに三塁コーチクビになった話が聞きたいな
>>17
1001とは監督になった瞬間出されたからそもそも構想に入って無かったんだろ?
若い彦野を使いたかった。
>>20
1001初年度の1987年だけドジャースユニの背番号3着けてたよ。
開幕早々に故障して彦野にレギュラー取られた。
移籍決定直後やのサンデードラゴンズがYouTubeにアップされてだけど不貞腐れて感じ悪かった。
が、そこから這い上がって翌年古巣と日シリで対戦
>>17
当時は星野という苗字を聞いただけで虫酸が走り、オリックスにいた星野を滅多打ちにしていた。
平野金物店の本を読んでからファンになった。
スゲー肩だったよねw
>>22
お姉さんが書いた本だよね
NHKでドラマ化もされたやつ
あれは泣いた
星野監督初年度のキャンプで、取材に来ていた当時婚約中の奥さんとじゃれ合っていたのを星野監督に見られて、それから干されモードに入ってしまったと永谷脩氏の著書に書いてあったね で、彦野の台頭が決定打になってしまったと
>>25
ボスってのは子飼いで固めたいんだよ。
平野に牛島、谷沢に中尾。
うるさ方は出されるよ
清原にバット投げられたのは平沼定晴
>>28
村田兆治に投げてたら、凄かったけど。
やっぱり、覚醒剤に逃げるヤツ。
ヒルマン時代のハムを支えた佐藤ヨシ、淡口、平野の外様コーチ
当時のハムはバントバントのスモールベースボールやっとったがそれに貢献したのが平野だった
しかし、フロント介入が酷すぎる今はこんな有名選手の外様がコーチやってくれることはない…
アホの吉村早く死ね
>>31
「キャンプ中、もっと長く練習させてほしい」と嘆願してきた日本人
日本人はバント練習も要求したという。バントはいかにも日本的な
作戦で、大量得点を狙う攻撃的なヒルマン方式とは正反対だ。
大半のアメリカ人監督と同様、ヒルマンもバントはアウト
アカウントの無駄遣いだと考えた。
ヒルマン
「バントは日本人の“免罪符”だ。大量得点のチャンスを
むざむざ見過ごし、失敗を回避するための弁解でしかない。
選手たちはある種の安心感を得られる。
『よし、危険を冒すより、堅実に1点取っておこうぜ』とね」
>>39
2006 ファイターズ犠打数 133 パ・リーグ一位 リーグ優勝 日本一
2007 ファイターズ犠打数 151 パ・リーグ一位 リーグ優勝
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